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昨年に引き続き、この時期に実家に帰省した。

我が家は私をふくめ3人が3月生まれだし、実家の庭には桜が綺麗に咲くこともあって、気付けばこの時期に帰省することが多いのだけど、昨年はいつもとすこし事情がちがったことを思い出す。

’疎開’という格好で春休みをつかって帰省していた姪たちと、庭で一緒に遊びながら、外でのびのびと遊べることの有り難さをかんじていた。

そのとき満開だった桜は、今年はまだ蕾。

代わりに梅が咲き誇っていて、遅いけれど確実に春がやってきているのをかんじていたら、大嵐となった。

今年は一筋縄では春もやってこないらしい。

'春の嵐'で梅は散り去ったけど、きっと耐えた蕾の桜はもう少ししたら花を咲かせてくれるだろう。

どの季節にも良さがあって好きだけど、自分が生まれた季節をほんの少しだけ特別におもうのは皆に共通していることだろうか?

私は桜の咲くこの季節に生まれたことをすこしだけ幸せにおもう。

きっと多くの人が長い冬があけて待ち望んだ暖かい春にすこし浮かれた幸せなきもちになるのと同様に、ただ自分が生まれた日というだけだけど、それだけで皆に祝福してもらえて、そんな友人や家族たちに囲まれていることに感謝できる特別な季節。

昨年も地震の直後の動揺のなか、計らずも友人たちが集って静かにお祝いしてくれたことがとても暖かく心にのこっている。

いつも周りの人や出会いに恵まれていると本当に感謝しているけれど、とくにこの時期に心から嬉しくありがたくおもう。

昨年を経て今年のいま、そして家族で集えること、今年はとくに幸せにおもう。

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’春の嵐’という言葉があまりに耳に残って、実家にあった文芸全集でヘルマン・ヘッセの「春の嵐」をさがしてみた。まだ読んだことのないその本のストーリーは知らないのだけれど、冒頭には’幸せ’について気になる書き出しがあった。

 

「私の一生を外側からながめてみると、格別に幸福なようには見えない。だが、いろいろ迷いはしたけれど、不幸だったとはなおさらいえない。要するに、幸不幸をとやかく言うのは、まったく愚かしいことである。なぜなら、私の一生のうちで、どんなに不幸のどん底にあった日々でも、それを捨ててしまうことは、たのしかった日々のすべてを捨てるよりもつらく思われるのだから。

 人間生活の中でだいじなことは、どうにも避けようのない運命を自覚をもって受けいれ、よいことも悪いことも心ゆくまで味わいつくし、外面的な運命とともに、内面的な、もっと固有の、偶然とはいえない運命にうち勝つことだとすれば、私の一生はみじめでもなかったし悪くもなかった。外面的な運命は、どうにも避けようがなく、神のみこころのままに、すべての人とおなじように私をかすめていったが、内面的な運命は私自身の作ったものであり、その甘さやにがさも私にはふさわしいものである。だから、この内面的な運命にたいしては私ひとりで責任を負いたいと思うのだ。」

 

幸せというのは気持ちの持ち様で、自分のなかにあるとはよく言うけれど、すべてが満たされていては分かり得ない幸せというものがあるのだとおもう。

春も桜も短さに刹那をかんじるように、幸せもその儚さと脆さに気づいたときに深く味わえるものなのかもしれない。