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長い冬を耐えて暖かい春を待ちわびていた桜は、今年はいつになく短い間に一気に咲いたかとおもうと、あっという間に散っていったようにおもう。
花のさだめとはいえ寂しくもかんじるけど、そのぶん散り際はひと際うつくしかった。
 

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前回も書いた、気になる冒頭に惹かれた「春の嵐」(原題ゲルトルート)を桜吹雪のなか読んでみたりした。

不思議といまの自分に符号するような部分があったりして、とても切ない話ではあるけれど、読み終わったときは嵐というよりも静かな穏やかな気持ちになった。

なんとなく自分のなかにあった漠然とした感情や思考や情熱といったようなものに改めて気づき直して、どこか肯定されたような気がしたからだろうか。

ヘルマン・ヘッセは教科書で読んだ「車輪の下」の(それもおぼろげな)重くて暗いイメージしかなかったけど、こんなふうに詩的で叙情的な、芸術と人生について大いなる悩みを深く思考した人だと知り、意外にも夢中で読んでしまった。

ただなにげなく’春の嵐’という言葉をたくさん耳にしたので、そのタイトルの本が気になっただけなのだけど、こうして出会うべくときに出会った本のようにもおもう。

私にとってはこういう本との出会いはすべてタイミングで、今年の春に嵐がなければ出会わなかったかもしれないし、邦題が違っていたら手に取らなかったかもしれないし、きっとまたべつの時に手に取っていてもこんなには心に響かなかったかもしれない。

これはいつもおもうし、すべてに言えることだけど、日々の生活や自分のまわりには、新しい発見や出会いのヒントが隠されていたりして、自分にとって必要なときに必要なものに出会えるように仕組まれていたりする。なんとなく自分の心に従ってそんな出会いに辿り着けたときは、とても嬉しい。

 

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春は、別れとともに、出会いやはじまりの季節なのかな。

この春は私の生活にもすこし変化があった。

終わりがあって始まりがあり、終わりは寂しかったりもするけれど、年とともに過ぎ去るものや通り過ぎていく人を受け入れるのに慣れたのか、私もすこしは切り替えるのが上手になったようにおもう。

子供の頃は、クラス替えがあるとしばらくは以前のクラスがよかった、とおもっていた後ろ向きな子だった気がするのに、慣れてしまえば新しいクラスが楽しくなって、また次の年にはおなじことをおもうことを繰り返して学習したのだろうか、きづけば今は新しいことに期待する気持ちのほうが大きく前向きな自分がいる。

ちょうど桜の満開の時期に、ずっとのんびりと散歩をする余裕もなかった日々から解放され、平日の昼間に遠回りをして青山墓地を通り抜けてみたり、こんなふうに花吹雪のなかで読書をしたり、つかの間のうららかな春の陽気を楽しむ余裕がもてたのが嬉しくて、なんとなく心も長い冬から解放されたような、はずむ気分になった。

そうした気持ちや状況の変化を待っていたかのように舞い込んで来た事々で、きづけばまた忙しくなりつつあるけれど、あたらしい状況を楽しむ気持ちで、いまはとてもありがたくおもう。実際それはとても楽しみなプロジェクトたちであったりする。

そして、もうひとつこの春から新しいことを始めようとおもっている。

それを想像すると、また心が踊るような気分になるのだ。

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