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週末にひさびさに友人のお芝居を観に行ってきた。
昨年、こちらでも紹介させてもらったSWANNYの第二回公演。
2回目でいきなり規模も内容もパワーアップしていて、面白かったし驚いた。
プラトンの「饗宴」を下敷に、ソクラテスの時代と現代下北沢(?)の居酒屋がパラレル的にシンクロし、様々な種類の愛についてのお話が見事に無造作にしっちゃかめっちゃかに語られながら、踊りあり笑いありのエンターテイメントになっていて、いったい私の友人の才女の頭のなかはどうなっているのだろう、と感嘆してしまうのだった。
 
依然、お芝居のことは詳しくないけど、映画や芝居には、そのときの自分に共鳴するような台詞だったり、真理をついた言葉がふんだんにでてきて、言葉の(ときにリズムを持って発せられる言霊の)力に、自分でも思った以上に刺激を受けているのだとおもう。
 
 
さてプラトンの「饗宴」は、有名なアリストファネスの”人間が太古に引き裂かれた半身をもとめる”くだりを知っていたくらいで、あまりに浅学なのだけど、この機会にそろそろちゃんと読みたいな、と調べていると、ざっとかいつまんだだけでも、
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エロスとは、「偉大な心霊(ダイモン)です。心霊的なものは、神と死すべきものの中間にあるのです、、、神々へは人間からのものを、また人間へは神々からのものを伝達し送り届けます、、、神は人間と直接に交わるのではなく、すべてこのものを通じてです。」
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とある。
このエロスの中間性は、「エロスとは美を求める愛」であり、また智慧がもっとも美しいものの一つである以上、エロスは「愛智者(フィロソフォス)」である、というソクラテスの弁証で導かれ、愛知者とは、智者(すでに知識があるので欠くところがない者)のことでも、無知者(欠乏さえ感じず己に満足している者)のことでもなく「愛智者として智者と無智者との中間に位する者」なのだそうだ。
 
プラトンのいうところの、崇高なるエロスの正しい道の過程
『それはすなわち地上の個々の美しきものから出発して、かの最高善を目指して絶えずいよいよ高く昇り行くこと、ちょうど梯子の階段を昇るようにし、一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになる』というやけに輝かしい言葉の響きは、ときどき物事の真理についてぼーっと考えてしまう、そして美について写真について考え続けている自分にとっては、なんだか胸がときめく哲学だ。
 
そして、今回のお芝居で私が感じたていたことが、そのままエロスの中間性のことだったわけであり、その言霊(心霊)が、神と私たちを伝達し交わる助けとなるのは、プラトンの難しい文章を読まなくても、頭のいい人が噛み砕いて分かりやすく現代風にアレンジして伝えてくれるのだから、まさしく、そういう意味でお芝居がエロスであり、美であり、アートであるわけで、そもそもこの「饗宴」が戯曲のようなお話なことからも、なるほどな、と改めて感じ入ったのだった。
 
それにしても、ギリシア時代にこんなに知性が進んでいたことが、その少子化への影響とは無関係ではなかっただろう、とプラトンの文章を読んでいると改めておもう。きっと、これもそのまま今の時代に通じることなのだろう。
 
最後に、ソクラテスの弟子のアルキビデスが、ソクラテスの勇姿を讃えて、彼がいかに冬の寒さに耐える強さを持っていたかを話すくだりがあるのが、なぜか可笑しい。
 
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今年の冬は寒い。
寒い寒いと言っていても’言霊’で余計に寒くなるだけだろうと分かっていて、つい言ってしまうほど、なんだか今年は寒い。決して冬が嫌いな訳ではないのだけど、最近では口癖のように’寒い’と言ってしまっている弱い自分がいる。
それなのに、今週末からさらに寒いところへ行くことになっていて、楽しみな筈なのに、少し怖じ気づいている。
 
昨年のこの時期にも、なぜか暖かかった香港が懐かしくなって書いたことを思い出すけれど、今年もおなじように、大寒の寒いときだからこそ、ほんの気持ちだけでも暖かくなれるように、マカオでの最高に気持ちの良かった時の写真とともに。
 
マカオのホテルのバルコニーで、波の音と鳥のさえずりを聞きながら本を読んだ贅沢な時間を思い出しながら、寒い国へは「饗宴」を持って行って、寒さに耐えながら強いお酒でも飲んで、思考の波間を漂うのも悪くないかもとおもう。
 
 
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