ss2030_c.jpg
 
モロッコには一度だけ行ったことがある。
それもほんの数時間。
 
スペインにいる友人を訪ねていった際に、短い滞在期間のなかでどうしてもモロッコまで行ってみたくて、マドリッドの友人の家から夜行バスでアルヘシラスまで迎えば、次の朝出発の日帰りツアーでタンジールへ行けることを発見して、急遽むかうことにした。
でも突然おもいたった行動に無理があって強引だったのか、なぜか夜行バスの乗り場へ向かう途中で思い直して、夜行電車が出ている駅へ向かってしまい、電車に飛び乗った。血迷ったとしか思えない行動で、いまも不思議なのだけど、結局、バスより速くつくと思った電車がアルヘシラスへ着いたときには、タンジール行きの日帰りツアーは出発したあとだった。
そんなわけで、ツアーに参加してしまえばなにもいらないだろうと、地図もガイドも用意していなかったので、すこし不安ではあったけど、とりあえず海を渡ることにした。
 
アルヘシラスからタンジールまでは高速船が頻繁に出ていて、1時間ちょっとで着く。
ヨーロッパ大陸からアフリカ大陸へ海を渡ってたどりつく、という響きよりもずいぶんとあっけなく着いてしまうので、まるで瀬戸内海をわたるフェリーに乗ったくらいの感覚だったのをおぼえている。
それでも、ジブラルタル海峡の真ん中をいくとき、デッキで風を受けながら、深くて濃い青い海にかこまれた自分ののった船を俯瞰でみるようなイメージで、アフリカ大陸へ向かっているのだという興奮とともにやけに空が広いと感じた。
 
ss2031_c.jpg
 
だけどついた先で待っていたのは、あやしい日本語を連発する客引きの人たちで、右も左もわからずなんの情報もなく辿り着いた私は、とりあえず声をかけてきた若い男性ガイドに案内をお願いしてみたけれど、入り込んだら二度と戻ってくることが出来なさそうな入り組んだ迷路の奥の怪しい建物のなかに連れて行こうとする彼に着いていくのが怖くなって、”あの建物のなかで機織りをしている人たちがいる”と言っていた気がするけど、”そんなところへは行きたくない”と怒って帰ってきてしまった。
 
かといってひとりでどこへ向かっていいのかあてもなく、迷路のなかを散策する勇気もなく、すごすごとアルヘシラスへもどるフェリー乗り場へともどったのだった。
 
 
そんななんとも残念なモロッコの遠い記憶を思い出したのは、先日まで東京都現代美術館でやっていたフランシス・アリス展にぎりぎり駆け込んだからだ。
会期後期の特集《川に着く前に橋を渡るな》は、ジブラルタル海峡によって隔てられたヨーロッパとアフリカ、二つの大陸を海を渡るこどもたちの列によってつなぐというプロジェクトで、”ヨーロッパを出発してモロッコ方面へ進む子どもの列と、アフリカを出発してスペイン方面へ向かう子どもの列。その二つの列は水平線の上で想像上の出会いを遂げるだろうか?”と問う。
 
アルヘシラス側とタンジール側からと双方から靴でつくった舟を持った子供たちが海を渡り、想像上の橋を繋ぐ。
各国で起きる移民政策の問題とその疑問を背景に、ジブラルタル海峡が現代に潜む矛盾をつくのに最適な場所として舞台にえらび、二つの国境に橋を渡す。国境の無いユートピアを求めるイメージを喚起する行為。
壮大な困難を要するプロジェクトと、その行為が神話的に語り継がれるのを目的としている点での共感とともに、ただ靴の舟を持った子供たちの列が海へ入っていくだけの映像のループの間で感じたのは、あのときジブラルタルを渡る船の上で感じた高揚感だった。
 
彼の作品から喚起されるいろいろな考えや思いとともに、しごく個人的な自分の記憶と絡んで、なにか意味をもって結びついたように感じる。あのとき辿り着いた先でかんじたモロッコでの壁。移民をよせつけない海峡の壁と同様に、自分自身のなかにあった壁に気づかされる。
 
物語が壮大なスケールであればあるほど、一人一人に結びつく何かがなければ届かないだろう。
空想上で終ってしまうことが目的ではないのだろうから。
 
何年もあとでもこうやって後から自分が行ったことがある場所の体験をもって共感できることが、旅でいろいろな場所を訪れる経験の宝であり、あの残念なモロッコでの体験さえも、何かの学びや気付きにつながることが、芸術に触れる嬉しさなのかもしれない。
 
その日、美術館を訪れるまえに、友人との食事の待ち合わせに先に着いて暇つぶしに手にした本を購入していた。
偶然にも、ある芸術家のモロッコ紀行で、タンジールから始まる旅の本だった。
帰り道に読みながら、あのときの壁を越えて、モロッコを旅するイメージが沸々と湧いてきた。
 
 
ss2032_c.jpg