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先日、自分の誕生日に、ある方の訃報の知らせを受けた。

SNSで届く友人からの誕生祝いのメッセージを受けながら、どうしようもない気持ちになった。

突然の知らせで驚きと悲しみに包まれながら、お祝い事の気分ではないけれど、もともとどうもSNSというものに慣れていない自分は、訃報の知らせを皆とシェアするほどきっとその場に心を開いてもおらず、もらったメッセージに途中しばらく静観してしまったけれど、それでもなんとなく無視することもできず、何事もないように元気にお礼を返しながら、なにか自分自身のなかに複雑な気持ちをかんじていた。

お祝いのメッセージを普段会えない友人などから送ってもらえることは、もちろん単純にとても嬉しくて、そのことにはなんの問題もなく、お礼の返信の内容も決して嘘をついているわけではないつもりだけど、それでも自分がそこでの顔を使い分けているような気味の悪さをかんじた。かといって、不特定多数の知り合いに向けて、内面をすべて共有してもらおうと吐露することも何故かできなかった。

 

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それなのに、気づけばもっと不特定多数の顔も知らない人に向けて公開しているこのブログで、私は父のことをはじめプライベートな自分の内省的なことを記していて、改めて自分でもまったく不思議だなとおもう。パソコンに向かって文を打っているこのときは、私にとって特別な時間で、自分のなかの深い部分にまで降りて行って対話をしているような気がする。それは写真を撮っているとき、作品と向かい合っているときとおなじような感覚だとおもうのだけど、普段の生活でまわりの人に見せている自分とは、すこし違うのかもしれない。きっとどんな人でも、抱えている心の内面があるはずで、それは自然なことなのだろう。

ただ私には、この場所ですこし自分に向き合って言葉にする、そんな作業の機会をもらえたことをとても感謝していて、その機会を与えてくれた、このブログをもしかするといつも一番に読んでくれていたかもしれないその方が居なくなってしまったことが、まだとても信じられなくてとても寂しいです。

その方に、静かに見守ってもらいながら、陰ながら応援してもらっているという心強さをもって、とくにこのブログを書き始めた頃はその方に読んでもらうことを前提に私は文章を書いていたとおもう。

直接お会いする機会は減っていたけれどいつも大変お世話になっていたのに、メールのやりとりだけでは何一つ察することができずにいたのが情けない気持ちと、訃報の知らせを受けても、その人の不在をまだ実感としてかんじることができなくて、ショックをかんじる。

いま思うのは、その人の存在を忘れないためにも、私はきっとこれからもその方へ向けてここで文章を書いて行きたいとおもう。

どうかご冥福をお祈り致します。

 

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4月1日をもってやっと情報が解禁になったので、告知をさせてください。

かなり以前から関わっていた写真集のプロジェクトがやっと形になりました。

「penetrant」という、感情で捉えた色をテーマにして5人の写真家さんが参加した写真集です。

書店などで見かけたらどうぞお手にとって見てください。

4月後半からは展示などのイベントも計画しています。

http://penetrant.jp/

http://penetrant.jp/c2_exihibition.html